新しい年を迎え1ヶ月、学びについてちょっと振り返ってみました。

私自身、いろいろと学んできた。
特にこの数年は、さらなる学びをと知識を身につけてきた。
自分が興味のある知らなかったことを学ぶことはとても新鮮で楽しいことだった。
物事を理論的に考え、自分が疑問に思うことが、理論的な整合性で理解できると、スッキリするし、何かしらの優越感のような感覚も感じることがあった。

人の中へ
学びを推し進め知識を持つことで自身の成長は確実にあるのだろう。
私が求める知識は、自分が成長する意味は、他者を助けることにあった。
しかし、気づくと自身のための学びになっていた時があった。
もちろん、自分が迷宮の闇に包まれた時に、知識はその闇から脱出するために大切な心の栄養でもあるので、学びは自身のためには必要なものである。
大切なことは、自身がその苦難から立ち上がるために身につけた知識は自分のものだけにしているのであれば、それは本末転倒になってしまう。

自分のための学びを深めていたとき、気づくと物事の判断は知的な判断が多くなっていった。
知的に(頭の中で)考えた方が、答えが簡単に見えるです。
でも、知的に判断できれば、容易に行動できる…ものではない。
なのに、知的に判断したものは、容易にできると思い込んでしまう。
頭で考えたことを指示をすると、相手がうまくできないと、なんでできないの?と思ってしまう。
知的な判断だけでは、実践の複雑さを理解できないのです。
知識は、盲目にしてしまうこともある。
知っている知識以外の出来事は目に入らない。
自分はよく知っていると思っているときは、もっとそれが顕著になる。

知識は大切。
しかし、何のための知識なのかで左右してしまう。
私が思うのは、他者のための知識であることなのだと思う。

つまずき倒れ、そこから立ち上がったときの知識や経験は、同じ苦しみを感じる友のために役立てる。
それが、本来の使命であり、私が学生の時から大切にしてきたことだった。

知識も体験も人のために…。
自己承認
自己実現
それぞれは自身のためではなく、他者のためにあると気づいた時に本当の意味での人としての成長があるのかもしれない。
そこからスタートすると、信念は揺るぎない。
人のために何かをしたとき、元気が出てきませんか。
誰かのために動いて、自分が何かの役にたったとき、心が軽やかになりませんか。
人は、誰かのために動き役にたったときに、生きる力が湧いてくるのだと思う。

つづく…。